社会超えた心の普遍性
|
| | 啄木賞受賞記念講演会で注釈の 可能性について語る木股知史さん =21日、盛岡市・岩手日報社 |
じっとしていても汗ばむ関西から、盛岡に来ると、1カ月ほど時間がもとに戻ったように感じた。あいにく小雨まじりの天候だったが、過ごしやすく、紫陽花(あじさい)が美しく咲いているのが印象的だった。 啄木賞を第20回という節目の年に受けることができたのは、大きな喜びである。何よりも、注釈という地味な作業が評価されたことを喜んでいる。緊張して授賞式に臨んだが、遊座昭吾審査員長の講評ともいうべき内容の祝辞には、注釈は文学的作業であるという言葉が含まれており、大いなる励ましを受けとった。 注釈は、文学作品の言葉を、作品の時代にかえして読みとることを基本とするが、今回の『和歌文学大系77』の『一握の砂』の注釈では、作品の言葉が、現在を含みこんでいる表現の歴史の上でどのような位置にあるかということを重視した。過去という固定した時点に作品をつなぎとめるのではなく、現在にまで存在し続けている生きた存在として考えてみたかったのである。 単なる語注ではなく、『一握の砂』という言語宇宙の全体の中での個々の表現の価値を見定めたいと考えたのである。「我を愛する歌」の章では、〈私〉は、働き手、子、父、夫というように、社会の網の目の中のさまざまな存在として現れている。そして、啄木は、鬱(うつ)に落ちこんだり、束(つか)の間の充足を感じたりする、さまざまな〈私〉を編集によって構成してゆく。 好きな歌を一首あげてみよう。「しっとりと/水を吸ひたる海綿の/重さに似たる心地おぼゆる」。水を吸った海綿をてのひらに置く微妙なバランス。もし、少しでも水分が流出すれば、微妙なバランスは失われるだろう。脚注の一節に、「独特の比喩(ひゆ)によって、心のあり方を表現した秀歌」と記した。 水を吸った海綿は、心の安息を示しているが、それは、とても微妙なバランスの上に現れるのである。何げないが、何物にもかえがたい心の一瞬の充足がとらえられている。生の原動力は、社会的な関係や事実の中にはなく、心や記憶の中にこそ求められる、と啄木は考えている。啄木短歌の何げなさは、社会を超えたところにある心の普遍性に基づいている。社会性には還元してしまえない、心の普遍性の存在。それが注釈の作業の過程で、私が啄木から受けとったものである。 短い滞在で、あわただしく勤務に復帰したが、得るところの多い盛岡の2日間であった。全社をあげて、文学賞に取り組んでいる岩手日報社の姿勢には、感銘を受けた。賞を受けることによって、自分のつたない研究歴に紫陽花の花のようないろどりを与えてもらったと感じている。今後は、専門的な研究はもとより、研究に縁のない一般の読者にも、明治大正文学の面白さを伝えられる編集的な仕事にも取り組んでゆきたいと思っている。 (2005.7.27夕刊)
|