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第16回岩手日報文学賞(平成13年)
 5氏受賞 岩手日報文学賞

 岩手日報社主催の第16回岩手日報文学賞(啄木賞・賢治賞・随筆賞)の贈呈式は2001年7月17日、盛岡市内丸の岩手日報社5階ホールで行われ、賢治賞はさいたま市、埼玉大教育学部教授の萩原昌好氏(62)の「宮沢賢治『銀河鉄道』への旅」、随筆賞は雫石町、自営業の高前田博子さん(51)の「正調よしゃれ節」に贈られた。啄木賞は該当作がなかった。

 贈呈式には、萩原氏、高前田さんと随筆賞佳作の金ケ崎町の主婦佐藤勇子さん(57)、盛岡市の主婦佐々木真理子さん(50)、滝沢村の宮本義孝氏(60)=盛岡スコーレ高校長、啄木賞審査員長の遊座昭吾国際啄木学会理事、賢治賞同・斎藤文一新潟大名誉教授、随筆賞同・作家三好京三氏、岩手日報社の村田源一朗社長ら約50人が出席した。

 大志田諭岩手日報社専務が各賞の選考経過を報告。村田社長が萩原氏に正賞のブロンズ像「エリカ」(彫刻家・舟越保武氏制作)と賞金50万円、高前田さんに同「エリカ」と賞金10万円、佳作3氏に賞状と賞金各5万円を贈った。

 主催者を代表して村田社長は「受賞した皆さんに、心から祝意を表する。萩原氏の著書は、詳細な検証で賢治のサハリン旅行に迫った格調高い作品。高前田さんの作品は、ダイナミックな筆致で胸を打つ感動的な随筆だ」とたたえた。

 田口淳一県教育次長、菊池昭雄IBC岩手放送社長が祝辞を述べたあと、三賞の審査員長が講評。萩原氏、高前田さんが受賞の喜びを語った。

 清六さんの贈り物 萩原昌好氏 21世紀冒頭の受賞を心から感謝する。私が心から尊敬する故宮沢清六さんからのプレゼントかもしれない。胸がつまる思いだ。

 書き続けて恩返し 高前田博子さん つたない文章に目を留めていただきありがとうございます。今スタート台に立ったところ。恩返しのつもりで書き続けたい。

【写真=岩手日報文学賞を受賞した前列右から賢治賞・萩原昌好氏、随筆賞・高前田博子さん。後列右から随筆賞佳作の佐藤勇子さん、佐々木真理子さん、宮本義孝氏】


〜 受賞者決まる〜
啄木賞

該当作品なし

賢治賞

萩原昌好氏(さいたま市)

随筆賞

高前田博子さん(雫石)

 岩手日報社主催の第16回岩手日報文学賞(啄木賞、賢治賞、随筆賞)の受賞者が決まりました。啄木賞は該当作がなく、賢治賞はさいたま市、埼玉大教育学部教授、萩原昌好氏の「宮沢賢治『銀河鉄道』への旅」(河出書房新社)、随筆賞は雫石町、自営業高前田博子さんの「正調よしゃれ節」が選ばれました。

 ◇啄木賞 該当作なし 

 ◇賢治賞 萩原昌好氏 神奈川県逗子市生まれ。62歳。

 受賞作は、1923(大正12)年の宮沢賢治のサハリン(旧樺太)旅行を主題とし、現地調査を通じて集めた資料と、時刻表と天体図を駆使してサハリン旅行のなぞを解明しました。難解で知られる詩群「オホーツク挽歌(ばんか)」にも新たな解釈を加えました。

 ◇随筆賞 高前田博子さん 雫石町生まれ。51歳。

 受賞作は、子守唄のように母から聞いたよしゃれ節が、疎遠になっていた母との心の触れ合いを生み、やがて寝たきりになった母の子守唄になるまでの親子の情愛を豊かに描いた作品、と高く評価されました。

◇     ◇     ◇

 贈呈式は17日午前11時から岩手日報社で行い、萩原氏に正賞のブロンズ像「エリカ」(彫刻家・舟越保武氏制作)と賞金50万円、高前田さんには正賞「エリカ」と賞金10万円が贈られます。

 随筆賞の佳作には、佐藤勇子さん(金ケ崎町)の「心の曇天」、佐々木真理子さん(盛岡市)の「故郷(ふるさと)は今」、宮本義孝氏(滝沢村)の「埠頭のイエス」の3編が選ばれ、賞金5万円が贈られます。

 受賞記念講演会は、17日午後6時から盛岡市内丸の岩手日報社5階ホールで行い、萩原氏が「サハリンと銀河鉄道の夜」と題して講演します。入場無料。



受賞者の横顔
 
賢治賞
萩原 昌好氏 
「宮沢賢治『銀河鉄道』への旅」

「賢治は旅意識が強く、人生を旅と考えている。魅力は尽きない」と語る萩原昌好さん

 宮沢賢治は1923(大正12)年7月31日、サハリン(旧樺太)へ向け、旅立った。「前年に亡くなった妹トシの魂のありかを索(もと)めた旅」であるとするサハリン旅行と「銀河鉄道の夜」の結び付きを、3度にわたるサハリン現地調査を基に探った。

 「銀河は夜出るに決まっているのに、なぜ『夜』という文字がタイトルに入っているのだろうか」。そんな素朴な疑問が研究のきっかけだった。

 「銀河鉄道の夜」は、サハリン旅行の経験を踏まえ、24年の夏までに構想されている。「あれこれ考えながら星座早見表をいじくっているうちに、星座の見える位置から賢治がサハリンへ向け花巻を旅立った時刻と、ジョバンニが銀河ステーションに乗る時刻が一致するのではないかと思った」と振り返った。

 午後9時59分に花巻を出発したとするサハリンへの旅程を克明にたどり、各地で見える星座と「銀河鉄道の夜」の記述との相関関係を、詳細な資料を挙げながら実証的に検証した。

 初めてサハリンに足を踏み入れたのは92年。先月亡くなった賢治の実弟清六さんら4人での紀行だった。

 「賢治の詩群『オホーツク挽歌(ばんか)』の舞台となったスタロードブスコイエ(栄浜)で、清六さんは歌を口ずさみ、とても上機嫌だった。清六さんには学生時代から本当に世話になった。独り言のように賢治のことを教えてくれる、人間味あふれた方だった…」と死を悼んだ。

 「清六さんのこともあり、今回、賞をお受けするか正直迷った。清六さんが『銀河鉄道』に乗ったに違いないと考え、そのことを書いた本での受賞を断るのは申し訳ないと思うようになった」と心境を語った。

 賢治作品の持つ「不思議さ」が、のめり込むきっかけとなった。「次々と論を書かざるを得なくなった」と笑みを見せた。

 「賢治作品はまだまだ分からないことだらけ。派手な本は書けないが、地道な研究を通して賢治を後世に伝えていきたい」。誠実な人柄がにじむ言葉で締めくくった。

 はぎわら・まさよし 東京教育大(現筑波大)文学部卒。同大大学院を経て現在、埼玉大教育学部教授。専攻は国文学。主著は「宮沢賢治 修羅への旅」(朝文社)、「絵童話集 宮沢賢治」(全15巻、くもん出版)など。宮沢賢治イーハトーブセンター代表理事。さいたま市。神奈川県逗子市出身。62歳。

 

 
随筆賞
高前田 博子さん
「正調よしゃれ節」

「受賞を機に引き出しにしまっている作品にも光を当てたい」と語る高前田博子さん

 4回目の応募で随筆賞を受賞した。エネルギッシュな筆致が将来性を感じさせる。「ぜひ欲しかった賞。本当にうれしい。長年片思いだった人に、ようやく振り向いてもらったような気分」と素直に喜んだ。

 受賞作は、疎遠になっていた母親との心の融れ合いを描いた。「母の歌う『よしゃれ節』を聞いて育った。3年ぶりに帰った実家で、私が三味線で弾く『よしゃれ節』を聞いた母の驚きと喜びを表現した」と説明。

 これを機に毎月帰省し、親子で「よしゃれ節」に取り組んだ様子を丹念に描いている。「自分の芸に、娘が振り向いてくれたことがうれしかったのだろう。母との間にあった溝は、自然に埋まっていった…」

 亡き母との思い出もさることながら、「『よしゃれ節』の魅力を知ってもらいたい」との思いが伝わってくる。自身の中で長年発酵させてきたテーマだ。

 題材を見つけ、温める時間は長いが、作品は短時間で書き上げる。今回も「書き始めたら、すらすらと筆が進んだ」と笑顔を見せた。だが、作品を満足に推敲(すいこう)せずに応募することが多い。「自分でも分かっているのだが…。これからは推敲に時間をかけるようにしたい」と、文章に磨きをかけるつもりだ。

 人の置かれた状況や、周りの情景の具体的な表現で喜怒哀楽を表現しようと心掛ける。「格好つけないで自分の思いを描く」のが理想だ。

 趣味は読書と、自身が経営する居酒屋での人間観察。「酒場では本音が飛び出し、さまざまな人間模様を知ることができる。ストーリーの題材がたくさん見つかる」という。

 「これを機会に民謡にまつわるドラマも描いていきたい。時間をかけて練り直せば、もっといい作品が書けるかも」と、また笑った。

 

 たかまえだ・ひろこ 盛岡四高卒。病院事務、店員などを経て現在自営業。1999年マシェリエッセイ大賞で志賀かう子賞受賞。雫石町。51歳。

 
賢治賞
「宮沢賢治研究資料探索」
「宮沢賢治研究資料探索」

 妥協許さぬ徹底ぶ

「明治以来の文壇に影響されていない賢治の魅力に引きつけられてきた」と語る奥田弘さん

 「若い研究者の『ぜひに』との声がなければ、世に出なかった本。思いがけない賞にびっくりしている」。

 内容の大半が、早稲田大出身者の同人誌「銅鑼(どら)」誌上での発表にとどまっていた論文。後輩研究者の後押しを受けて貴重な論稿が1冊にまとまり、正当な評価を与えられた。

 本書は、書簡を中心に賢治にまつわる周辺資料を、長年にわたり丹念に調査研究した成果をまとめた。盛岡高等農林の木村修三教授の講義が、賢治の後年の産業組合への関心、ひいては羅須地人協会の設立、「農民芸術概論」執筆の源流となった−などは本稿で初めて明らかになった事柄だ。

 妥協を許さない徹底した資料研究は綿密を極め、対象範囲も広範だ。よって立つ「足場」の確かさが、賢治の実像を浮かび上がらせる力となっている。

 「探索の奥田」と評される。賢治全集の編さん委員としても、誠実に取り組んできた。「机の上だけの仕事は向いてない。(調べる対象の)土地の人から直接話を聞かないで筆は執れない」とは、この人らしい。

 賢治全集にかかわっていたころは、毎年3、4回は岩手に足を運んだ。賢治の歩いた跡を訪ねて、三陸沿岸をヒッチハイクした経験も。「(岩泉町)安家で調べたいことがまだある。今は道路も変わったはずだが、また行ってみたい」 昭和30年ごろだったろうか。「雨ニモマケズ」の詩碑を花巻に見に行った後、前触れもなく宮沢家を訪ねたことがある。「突然の訪問者を、ご両親と(弟の)清六さんは快く迎えてくれた。本当に感激した」と、賢治研究に没入する原点となった出会いに感謝する。

 80歳を過ぎた現在も、自宅近くに20坪ほどの畑を借りて野菜づくりに励む。「賢治が生涯をかけてしたことは、農民相手の仕事に尽きる。ただそれで命を縮め、親より先に亡くなったのは残念でならない」と悼む気持ちは今なお深い。

 おくだ・ひろし 早稲田大文学部国文科卒。都内の公立中学校で教職を務める傍ら、宮沢賢治研究を進める。校本、新校本の「宮澤賢治全集」(ともに筑摩書房)編さん委員。1990年から2年間、宮沢賢治学会イーハトーブセンター理事。神奈川県相模原市。茨城県日立市出身。82歳。


随筆賞
「正調よしゃれ節」 高前田博子


 民謡酒場の引き戸を開けると、よしゃれ節が耳に飛び込んだ。私は子供の頃を思い出した。

 母の唄うよしゃれ節は私の子守唄だった。朧(おぼろ)月に誘われて歩き続け、ふらりと入った酒場で音色に魅せられ、三味線を習い始めた。

 くる日もくる日もチン、トン、シャンの繰り返しで、私はじれったくなった。

 「よしゃれ節を弾きたいんです」

 私は身のほど知らずだった。ピアノで言えばドレミファがやっとで、バイエルもさらわず、いきなりソナタを弾くようなものだ。

 師匠は半ば呆れ顔でよしゃれ節を弾き出した。昔、聞いた母のとは違っていた。私が尋ねると、今のは新よしゃれ節と教え、次に正調よしゃれ節を弾いてくれた。

 その時から私は夢中で練習した。

 「右手の小指にマメが出来、潰(つぶ)れ、これが固くなり、撥(ばち)ダコになるまでの辛抱」と、師匠はさらりと言った。

 私が正調よしゃれ節を弾けるようになったのは、冬も過ぎ、フキノトウが芽吹く頃だった。最初に難しい曲をさらったせいか、おおよその曲は直に弾けた。レパートリーがどんどん増えて行った。

 ある日、私は三味線ケースを片手に電車に乗った。3年近く実家に帰っていなかった。仕事を転々とし、夜の勤めをしていた自分に負い目を感じていたからだった。

 電車が駅に近づくと窓から見える岩手山は春霞(はるがすみ)のせいか、しだいにぼやけて来た。駅に降り、寺坂をゆっくり登り、家の戸をそっと開けた。

 私の三味線ケースを見て母は、

 「おや、編み物でもやっているのか」

 と聞いた。

 私は黙って三味線を取り出し、よしゃれ節を弾いた。家にしばらく寄り付かなかった娘のいきなりな行動に母は唖然(あぜん)とした様子だった。すぐに我に返り、手拍子を取り、唄い出した。

 久しぶりに聞く母の唄声だった。体の底から甲高い澄んだ声が湧き出て来た。

 母と娘の心の溝は、よしゃれ節ですぐに埋まった。

 「その他に何か弾げるか」

 私は知っている限りの曲をLPレコードのように鳴らし続けた。母はと言えば、太鼓まで持ち出し、軽快にリズムを刻みながら唄った。

 ふと窓辺に目を遣(や)ると、日ざしを受けて薄緑に光っていた桜の葉も濃さを増し、日没の暗さになっていた。隣の家から夕餉(ゆうげ)の焼き魚、甘塩っぱい煮染めの匂いが漂って来た。

 この日を境に私は月に1度ほど家に帰った。母は私の好物のワラビのお浸し、フキ、タケノコの煮物を用意して待っていた。

 夏の日だった。母は私の伴奏で唄っていた。近くの雑木林からセミも負けじと加わり、微かな涼風で風鈴も時折相の手を入れた。

 「秋の芸能祭で伴奏して欲しいども」

 私は母の言葉に頷いた。母は地域の郷土芸能の指導者だった。太鼓、唄、踊りと難なくこなした。私の姉も踊り手として加わることになった。

 踊りでは腕は肩と水平に保てとか、親指以外の指は離すなとか、細かいことにも厳しかった。

 秋になり、駒ケ岳から降りて来た風が稲田を駆け抜けて行った。そして収穫が終わった晩秋、芸能祭の日となった。町には専用のホールなどなく、会場は小学校の体育館だった。来賓の祝辞も終わり、いよいよ出番が来た。

 母の唄と太鼓、私の三味線、姉を含めた10人の踊り子が舞台にいた。最初、踊り手は平伏している。三味線の1の糸の連打を合図に頭を上げ、音の変化を一音一音聴き逃さず、すっと立ち上がる。静から動への一見単純な動作は実は難しい。その後の動きは自然に繋がっていく。

 黒留め袖に白足袋の正装だ。漆黒の地色にツル、チョウ、ボタン、キク、マツなどの動植物の模様がしなやかに揺れた。私は照明のせいか眩(まぶ)しくて何も見えず、喉がからからだった。

 その夜、母とよしゃれ節の起こりについて話が弾んだ。


   
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