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第15回岩手日報文学賞(平成12年)
受賞者の声

啄木目録まとめたい 佐藤 勝氏 啄木研究者にとって権威あるこの賞を受賞し、感激している。何かとお世話になった故上田哲氏と受賞を競ったのも不思議な縁だ。これを励みに、さらに啄木目録をまとめていきたい。

「中身」の研究深める 木村 東吉氏 晴れがましい賞をいただき恐縮している。調査に協力していただいた岩手大や宮沢賢治記念館など、関係団体に感謝したい。詩集の成立過程が分かってきたので、これからは中身の研究を深めていきたい。

「書く奥深さ」を追求 四戸正子さん 受賞できるとは思っていなかったので、夢のようだ。これからも勉強を続け、ものを書くことの奥深さを味わっていきたい。


〜 受賞者決まる〜
啄木賞

佐藤 勝氏(神奈川)

賢治賞

木村東吉氏(島根)

随筆賞

四戸正子さん(盛岡)

 
 岩手日報社主催の第15回岩手日報文学賞(啄木賞・賢治賞・随筆賞)の受賞者が決まりました。啄木賞は、神奈川県秦野市、神奈川県職員、佐藤勝氏の「石川啄木文献書誌集大成」(武蔵野書房)、賢治賞は島根県松江市、島根大教授木村東吉氏「宮沢賢治《春と修羅 第2集》研究−その動態の解明」(渓水社)、随筆賞は盛岡市、主婦四戸正子さんの「祈りの土笛」が選ばれました。

◇啄木賞 佐藤勝氏 福島県いわき市生まれ、58歳。

 受賞作は、啄木の著作と、これまでの研究文献2万点を独力で調査・整理したもので、次世紀の啄木研究の始点となる基礎データとして高く評価されました。

◇賢治賞 木村東吉氏 岡山県哲西町生まれ、58歳。

 受賞作は、「春と修羅第2集」が3回清書された詩集であり、また清書によって全体の作品がどう変わったか、さらに作品が作られた時の気象を調べ詩の成立過程を明らかにした点が高く評価されました。

◇随筆賞 四戸正子さん 青森市生まれ、33歳。

 受賞作は、鳩(はと)笛を主題に、子ども時分に亡くなった叔父のことや、人々の思いを表現力と構成のうまさで描き上げた作品と高く評価されました。

 啄木賞、賢治賞は全国で出版されている関係図書、論文を対象に推薦・公募し、随筆賞は県人を対象に作品を募集したものです。贈呈式は21日午前11時から岩手日報社で行い、佐藤氏、木村氏に正賞のブロンズ像「エリカ」(彫刻家・舟越保武氏制作)と賞金50万円、四戸さんには正賞の「エリカ」と賞金10万円が贈られます。随筆賞の佳作は加藤ヱイさん(盛岡市)の「黄昏の窓から」、高橋貢氏(石鳥谷町)「山の神幻想」、細野戰司氏(盛岡市)「梅もどきの実」の3編で、賞金5万円が贈られます。

 受賞記念講演会は、21日午後6時から盛岡市内丸の岩手日報社5階ホールで行われ、佐藤氏は「啄木探し、自分探しの旅」、木村氏は「宮沢賢治の詩の魅力の一面」と題して講演します。入場無料。 



受賞者の横顔
 
啄木賞
佐藤 勝 氏  
ファンの視点貫く

 

 受賞作「石川啄木文献書誌集大成」は、明治34年から平成10年までの啄木に関する単行本、雑誌、新聞記事、研究紀要など約2万点の文献を網羅した労作。次世紀の啄木研究の始点となる基礎データとして高く評価される。

 平成4年に本書の母体というべき「資料石川啄木」を出版、啄木賞候補となった。30余年間に自分が収集した啄木関係書約4800点の蔵書目録。当時審査委員長だった元日本大教授で啄木研究者だった故・岩城之徳氏は、審査評で「次席に甘んじないでもっと勉強を」と励ました。

 「前著は、啄木を好きな自分が啄木をもっと知りたいという人々のために自己流で作った目録。書誌学という言葉すら初耳だった。しかし励ましや指摘を受けて、好きだからこそ、より正確な啄木書誌を作りたいという思いが芽生えた」 それから7年。単なる蔵書目録を超え、岩城氏、故・吉田孤羊氏ら先学の啄木文献目録も参考に取り入れ、文字通りの集大成が成った。過去の目録では、同一文献で発行日、発行所、ページ数などが異なる記述も見られ、可能な限り現物に当たって異同を正した。

 国際啄木学会会員。「本書について『いらない文献も入っている』という会員の声も聞く。承知の上です。アカデミックな研究書だけが、啄木受容の歴史ではない。啄木を支えたのはファンでしょ、愛好者でしょ。例えば啄木に関する随筆や小説類は、史実と違う点があっても、本質を突くところがある。研究に役立たないからといって『いらない文献』と言えますか」

 それは「いろんな啄木に出会うことのおもしろさ」でもある。福島県いわき市で農家の三男に生まれ、中学卒業後集団就職で上京。現在は神奈川県の身体障害者療護施設で働く。「啄木の歌が人生の支えになってくれた。自分も善悪さまざまな面を持っている。いろんな啄木に出会うことは、自分に出会うことだったのかと思う時がある」

 本書出版後、未知の人から「漏れている文献がありますよ」と教示された。「5、6年後には補遺を出したい」と万全を期す。

 

 
賢治賞
木村 東吉氏 
詩集のナゾを分析

 「クイズを解くのが好きなんです」。宮沢賢治の詩「春と修羅第二集」の解明をクイズに例えた。しかし賢治が残した同第二集というクイズ≠ヘ研究者や読者を悩ませてきた。全容解明が困難で、多くのことがナゾのまま残されたからだ。

 第二集は紀行詩群と生活詩群が交互に配列された詩集。賢治はこの詩集の出版を計画し、10年にわたって創作・編集したが、未完に終わり、出版もできなかった。「第二集には鬱(うつ)然とした独自の輝きがありますが、正当な形で読まれる機会を得られなかった不運な詩集です」と語る。

 解明はふとしたきっかけだった。賢治語彙(い)の注釈に取り掛かろうとした時、原子朗氏編の「宮沢賢治語彙辞典」(東京書籍)が発行され、「それならばと賢治の詩歌研究を始めた。詩歌は賢治研究の中でエアポケットでしたからね。それと賢治研究者の入沢康夫先生が『第二集の作品番号と制作時がずれている』と話されたことも取り組む契機となりました」。

 日本近代文学研究者。詩人の萩原朔太郎の比較対象として賢治を手掛ける。「根っこは2人とも寂しい。寂しさ表現の二系統です。しかし賢治は逃げ水みたいなんです。つかんだと思うと奥がある。賢治にはまってしまったんです」 大学からの派遣で平成2年から3年にかけて、岩手大教育学部で賢治を研究した。受賞作はその研究から生まれた。第二集の言葉を頼りに盛岡市や花巻市などを歩き、例えば「赤い石の像がある」などの場所を調べ、盛岡地方気象台では詩作を裏づける当時の天候を調べ、詩集の分析と作られた経過を解明した。「1つつぶしてまた逃げ水を追う。この繰り返しでした。花巻などで皆に親切にしてもらいましたね」と話す。

 徳田秋声、泉鏡花、中島敦を手掛け、今は賢治の詩歌観に打ち込む。「賢治研究が支え。もし賢治が生き永らえたなら北原白秋の対局に立つ詩人でしたでしょうね。理性的で理知的な作家で詩人と思います。その詩歌観は…」と言って口ごもった。「答えは10年先でしょうかね」。誠実で自己に厳しい賢治研究者である。

 
随筆賞
四戸 正子さん
家族への思い凝縮

 2回目の応募で岩手日報随筆賞を射止めた。自身を仮託した構成と展開が優れた随筆を書く。受賞作「祈りの土笛」は、幼いころの遊び道具だった鳩(はと)笛に込められた祖母や父の思いを回想した作品。

 「家族と一緒に、5歳までを過ごした古里・青森での、記憶に鮮明に残っている鳩笛をテーマに、作品を書きたかった。主題は自分の中で十分に発酵させてから取りかかりました」と語る。

 鳩笛は青森県の郷土がん具。その鳩笛を求めて今春、まだ寒さの残る中、弘前市の下川原焼の窯元を訪ねた。「自分で実際に足を運び、風景を眺めながら書いた作品で思い入れもひとしおです。津軽の人々の純朴な人柄を描くことができたように思います」 鳩笛は生家の仏壇に飾ってあり、家族の思いを秘めている。祖母にとってみれば、幼くして亡くした息子の形見のようなものだった。

 「叔父は4つの時に肺炎で亡くなりましたが、亡くなる直前に『鳩が来る』と言い、鳩の夢を見ていたと言います。祖母は、幼い私が喜んで吹いている姿を、どんな気持ちで見ていたのでしょうか。その心情が伝わるように心がけました」 テーマに沿った優れた記述が高い評価を得た。「書き始めるとスラスラと進みます。でもテーマから少し離れて考えてみるようにしています。心境の吐露にならないようにしたいからです」 随筆を書き始めたのは、家庭を持ち、時間に余裕ができた3年ほど前から。「文章を書くことは子どものころから大好きでした。随筆賞を取れたのは周囲の支えがあったからです」と話し、笑みを見せた。

 「人の心の明暗。特に心のすれ違いなど暗の部分をうまく表現できたらと思う」と語っていた。


随筆賞
祈りの土笛 四戸正子 


 「孫の鳩(はと)笛コ 爺(じい)ちやも鳴らして ニグラと笑たネ」 山吹色の高木恭造の詩集をひもとくと、懐かしい津軽の情景が浮かぶ。

 青森に生まれた私は幼いころ、鳩笛をよく吹いた。早逝した祖父の仏壇に、祖母が飾ったものだった。ふっくらと丸みを帯びた鳩の形が愛らしく、紫や緑、白、赤、黄など中間色の彩色が優しい。手のひらに乗せる。落とすと壊れるはかない玩(がん)具からは、手作りの土のぬくもりが伝わった。

 鳩笛は、青森県の郷土玩具で、弘前市の下川原焼と呼ばれる土人形の一つだ。

 しっぽに開いた笛口から息を吹き込むと、素朴な声で鳴く。一、二度吹いてはやめ、しばらくするとまた吹いてみたくなる。祖母も隣に来て吹いた。大げさに口をすぼめた祖母の表情は、どこかおどけているふうに見える。

 ホーゥホーゥホーゥ やや低音の、のどかな音色が、耳にこだました。

 青森は家族そろって暮らした場所として、思い出が深い。五歳の夏に母の実家のある岩手県に越してからも、盆や正月には帰郷した。祖母は私の背丈を柱にしるして、会えずに過ぎた月日を計ったものだ。

 父は上京し家を離れていた。表だって話すことはなかったが、祖母や伯母たちの言葉の端々には、父への思いがにじんでいた。

 「どうしているんだばの」 祖母は誰(だれ)へともつかない独り言を時おり口にした。非難ではなかった。そうたやすく割り切れるはずのない肉親という絆(きずな)を、私たちはそれぞれの内に抱え、温めていた。私は岩手の生活になじみながらも、細い糸を手繰っては、故郷に行き着いた。

 鳩笛をもう一度吹きたい気持ちが膨らんだのは、祖母も他界し、私も家庭を持ってからである。引き潮のように遠のいていく時の流れを、とどめておきたかったのかもしれない。

 三月の上旬、窯元のある弘前市を訪れた。天守閣のそびえる公園は、人影もなくひっそりとしている。ざらめ雪が、冬木立からこぼれた日を受けて淡く光っていた。

 私は窯元を尋ねて歩いた。道順をメモに書いてくれた観光施設の人や、地図をくれたうえに、見送りまでしてくれた、あけびつる細工店の奥さんなど、どの人も親切だった。

 昼食を取った店の娘さんに距離を確認すると、あと二キロくらいだという。

 「良いお天気ですから、歩いても気持ちいいかもしれませんね」 とほほ笑んだ。

 城下町をほぼ東西に横切る土淵川沿いに、その家はあった。玄関から見える作業場に、赤土色をした素焼きの人形が並ぶ。下川原焼六代目の窯元が、絵筆を持つ手を休め、大小さまざまな土笛をそろえてくれた。

 下川原の土人形は、弘前藩九代藩主・津軽寧親公が、御用窯の陶師に作らせたのが始まりという。一八一〇年から、通称下川原と呼ばれる現在の地で製作している。天神様や鯛(たい)えびす、大黒様、内裏びななど約二百種類の型がある。人形笛も多く、土をなめると子どもの虫封じにきいたという。

 戦時中は家族が無事を祈り、お守り代わりに慰問袋にも入れた。

 「兵士も戦地で心がなごんだと思います」 窯元は眼鏡の奥の目をしばたいて語ってくれた。

 神様や節句、風俗、動物、その他暮らしにかかわるあらゆるものが、土の造形となっていた。その表情はどれも柔和だ。凶作の続いた厳しい土地で、悲しみや喜びを人形に託し、切に願いをかけた民衆の姿が見えてくる。つらさや苦しさを抱えながらも、前向きであろうとする生への執着が感じられる。土人形が「庶民の祈りの結晶」といわれ、今日まで受け継がれてきたゆえんであろうか。

 祖母の鳩笛には、どんな思い出があったのだろう。今は、近くで暮らしている父に尋ねると、四つのときに肺炎で亡くなった、父の末弟を弔うものであることを、教えてくれた。初めて聞く話だった。

 父の弟は、亡くなる少し前に、大きな声で「鳩が来た。鳩が来た」と叫んだ。

 当時、葬儀の花輪には鳩の絵が描かれていたので、父や祖母たちは、あの世から鳩が迎えに来たのだと感じたそうだ。

 「弟は何度も『また鳩が来た』と言うたの。きっとたくさんの鳩が集まって来たんだばな。みんなで画用紙に鳩の絵を描いて、弟の枕(まくら)元に置いだったの…。お婆ちゃが仏壇に鳩笛を飾ったのは、そういうわけせ」 父は声を沈めた。

 ささやかに見えながら、心に寄り添う何かが、この小さな玩具に潜んでいる。

 変わらぬ音色で、故郷を包むように。


   
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